二輪車新聞社便り

2017-09-11

慌ただしい中で創刊号作り

「創刊秘話」というほど大げさなものではないが、二輪車新聞の創刊は現場にいた私にとって、実に慌ただしいものであった。

私は1958年(昭和33年)4月に日刊自動車新聞社大阪支社編集部に入社。二・三輪車担当に配属された。その入社した年の11月末、支社長から呼ばれ、「君は来年から二輪車新聞社に転籍してほしい。ついてはその新会社で創刊する二輪車新聞の編集会議が1210日、東京の新会社で開かれるので出席して下さい」と、いきなりの命令で、私にとってはまさに青天の霹靂だった。当時、支社編集部には私を含め6人のメンバーがいたが、私の転籍には全員反対で、支社長との話し合いが続いたが、この顛末は省略。

二輪車新聞の発行準備は、東京では早くから進んでいたのかもしれないが、私としてはまったく初めて聞く話。

当時、日刊自動車新聞社とモーターマガジン社はグループ会社だった(現在はまったく関係がなくなったが、その経緯は省略)ことから、日刊自動車新聞社の二輪車部門を切り離し、新たに設立する新会社で「二輪車新聞を発行する」となったもの。これには本田技研をはじめ主要二輪車メーカーからの要望もあったという。

ともかく、私は581210日、お濠を渡り皇居の中にある二輪車新聞社本社に初出社。まず、木村襄司社長に着任の挨拶をすませた後、編集会議へ。そこには既に、編集主幹の山添幸治郎氏、編集長の根本昭三氏をはじめ部員スタッフ4名が揃っており、私を含め総勢7名の会議である。残す時間は20日間。この間で作りあげ、59年1月1日付の創刊号を発行しなければならない。紙面は新年号ということで12ページだった。

当時、国内には25社前後の二輪車メーカーが存在した。この主要メーカーの沿革や製品の紹介、国内二輪車業界の現状や生産・販売の推移、整備、補修部品の現状と問題点、モータースポーツなど掲載記事を決めるとともに、「この紙面割りで果たして大丈夫か?」と思うほどの大ざっぱさで紙面割りがされた。山添氏が色鉛筆を持って「ハイ、これはココ。ソコにはこっち」といった具合いにテンポよく決められていったのが、今でも記憶に残っている。

そうした慌ただしい中で創刊号の製作準備は進められ、5911日付けで創刊号は予定通り産声をあげた。

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠

 


新たに業界新聞を発行するということは、とてつもなくエネルギーのいることだった。それには、日本の二輪車産業を健全に発展させたいという業界からの要望もあった。写真は昭和34年1月1日付の二輪車新聞創刊号4面。