二輪車新聞社便り

2017-11-06

創刊10周年を記念した海外特集「東南アジア版」 40年を経た東南アジアへの思い

19591月1日に、二輪車新聞創刊1号が発行され、1968年は創刊10周年目にあたる。その10周年を記念して、二輪車新聞海外特集「東南アジア版」を発行することになり、大阪支社の担当となった。

支社といっても当時は事務の女性を含め、支社長の橋本教氏(今年3月死亡)と私の3人だけ。つまり、実際に新聞づくりに携わるのは2人だけであり、橋本支社長は広告営業を担当し、私が編集(取材・原稿執筆)を担当。

どうして実働2人だけの大阪支社が担当することになったか、理由はいろいろだが、端的に言って“東南アジア版発行の企画”を出したのが大阪支社だったということ(言いだしっぺがやる)と、自動車も含め“部品・用品”の輸出の拠点が大阪をはじめ関西地区だったからである。

68年の正月早々から橋本支社長と特集版の企画練りと準備に着手。まず、国内で出来る作業から着手。橋本支社長は本社にも手助けしてもらいながら、メーカーなど関係先への広告営業活動。私も本社に手助けしてもらいながら、東南アジア各国の生産・販売などの統計資料集めや関係メーカーや同団体などへの取材を開始。もちろん、こうした“てんやわんや”の特集準備のほか、日常的な仕事(毎週発行のレギュラー新聞の仕事)も最低限こなしながらである。ともかくも1月中には、特集の基本的な企画がまとまり、本社編集主幹に提出した。

特集のページ建ては20ページとし、うち17ページは事前に国内でまとめ、残る820ページは海外現地取材。現地取材は2月中旬以降から約3週間とし、沖縄(当時は米国/日本復帰前)・台湾・タイ・ベトナムの4カ国。広告営業活動は日本のほか沖縄・台湾とし、延べ120段(1ページ平均6段)の広告を確保する。この広告営業の責任者は橋本支社長で、私は20ページの取材と原稿作成。私の海外出張までの大仕事は、各資料集めのほか、大手部品・用品輸出商社の代表を一同に集めた「座談会」の開催と、この原稿作成であった。

特に座談会にご出席頂いた顔ぶれは▽大同自動車興業の中島九三社長▽大阪部品の大数加哲一社長▽南海部品の中嶋延男社長▽タカラ産業の中尾喜隆社長▽シュナイダー商事の松井謙一社長▽中央自動車工業の宗守弘雄常務▽大洋商会の酒見幸一取締役などで、皆様なつかしい人たちだが、多くがもう故人である。また、司会には本社から山添幸次郎編集主幹が来阪しあたってくれた。

さらに、海外現地取材に出発する前の大切な準備作業として、各完成車メーカーの現地法人や主なディストリビューターなどに、あらかじめ“取材協力のお願い”を連絡してもらっておくこと(当時はFAXやメールなどなく、テレックス)であり、現地取材活動がスムースに遂行するかどうかの大切なカギである。(つづく)

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠


昭和43年4月1日付の二輪車新聞「東南アジア特集版」より。