1958年8月(昭和33年)に本田技研工業の「スーパーカブC100」が発売されてから、なんと59年が経過した。今もスーパーカブは世界中の人々に愛され、アジアを中心に広く販売されており、その生産累計台数は1億台に達するという。1台の車両が基本思想や基本骨格を変更することなく、59年という長期にわたり販売が続くということは空前絶後といえよう。

スーパーカブを作ったのは、ホンダの創設者である本田宗一郎氏(当時51歳)であった。

1958年に発売開始されたスーパーカブは、オートバイでもなく、スクーターでもない、画期的な乗り物だった。フレームは乗り降りしやすいオープンフレームで、エンジン部分などはレッグシールド部で隠されていた。また、ポリエステル樹脂製の部品などが多用されたこともあり、スマートな外観となっていた。

世間をもっと驚かせたのは、2ストロークエンジン全盛の時代に、スーパーカブC100はOHVの4ストロークエンジンを採用していたことであった。4ストロークはバルブなどのメカニズムが複雑となるため、当然高価となるが、静かでクリーン、燃費の良いという大きなメリットを持っていた。単気筒エンジンは排気量50cc、最高出力は4.3馬力だった。

この4ストローク採用という英断を知るだけでも、本田氏がいかに優れた技術者であったかがよく分かる。

さらに、駆動系は自動遠心クラッチと3段変速を組み合わせた。自動遠心クラッチの採用により、難しい左手のクラッチ操作を不要とした。そのため、初心者でも容易に運転でき、そば屋の出前持ちは右手だけの片手運転ができた。スーパーカブの初期の広告を見ると、そば屋さんの写真が使われているのは、このため。

当時、国内の二輪車総生産台数が月間2万台ぐらいの頃、新型車のスーパーカブは3万台だったというから、いかに画期的な新商品だったかが分かるだろう。

スーパーカブの発売当時の車両価格は5万5000円だった。現在は19万3320円。

なお、スーパーカブ誕生のきっかけの一つとなったのは、1956年の本田氏のドイツ、イタリア旅行だった。この時、同行した藤沢武夫氏(後に副社長)は本田氏に「50ccで、底辺の広い、小さな商品がほしい」と提案していた。この旅行で本田氏は小排気量車のアイディアを得て、翌年、スーパーカブの試作車を完成させている。

当時のホンダのラインナップには、スーパーカブ登場以前に「カブ」という名称の取付エンジンがあった。1952年発売の2ストローク50cc「カブF型」で、動力源として自転車の後輪に取り付けて走る補助エンジンである。補助エンジンを自転車に取り付けると、文字通り“原動機付自転車”に変身するのであった。エンジン出力は1馬力。

カブF型は、赤色塗装のエンジンと白色塗装の丸型ガソリンタンクとの美しい組み合わせが特徴だった。ここに、技術だけでなく商品デザインをも重視する本田氏の技術者としての原点が見て取れる。価格は2万5000円だった。

なお、スーパーカブという車名は、この取付エンジンのカブFが大きく成長して、スマートな完成車両となったことから“カブを大きく超えたので、次はスーパーカブ”となったのである。カブは、英語では“クマなどの子”の意味がある。ボーイスカウトの幼児団員はカブスカウトという。

藤沢氏は、このカブF型を商材として新たな販売網を作ろうとした。全国の自転車販売店に「これからはエンジンの時代です。貴店にカブF型を1台1万9000円で卸します」という手紙を送り、賛同する販売店から入金されると、商品を送った。ホンダはこの方法により、一挙に多額な現金を得ると同時に、1万3000店という新たな販売網を築くことができた。

ホンダは、カブFで二輪車メーカーとしての商品展開と販売網構築の端緒を開き、スーパーカブで屋台骨を築いたと言える。

なお、ホンダはスーパーカブを発売した翌1959年に、マン島TTレースに出場することになる。極東の島国の小メーカー、ホンダのマシンは初レースにもかかわらず大健闘し、チーム賞を獲得。独自の精緻なメカニズムを採用したエンジンは関係者の注目を集めた。そして、ホンダは1961年には125ccと250ccクラスで圧勝し世界チャンピオンを獲得、いよいよ世界のトップメーカーに昇り詰めていくのである。(つづく)

二輪車新聞 元編集長 小川孝

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