古ぼけた建物の壁面に「モーターマガジン社」「二輪車新聞社」「日本オートバイ連盟」の看板が掲出されています。脇には「月刊雑誌モーターマガジン」の看板もぶらさがっています。

かつて、この建物に二輪車新聞社とモーターマガジン社が入居していました。写真が撮影された場所は東京都港区の芝田村町(現在の港区新橋6丁目)です。時は1962年(昭和37年)。目と鼻の先の芝公園の一角に東京タワーが完成した4年後です。まさに映画「三丁目の夕日」を彷彿とさせます。

画像: 二輪車新聞社とMFJの深い絆 ~芝田村町界隈~

当時、モーターマガジン社は二輪専門誌の『月刊オートバイ』と、四輪専門誌の『月刊モーターマガジン』を出版していました。国内でモータリゼーションが盛んになる遥か昔です。

さらに、モーターマガジン・グループとして、「日刊自動車新聞社」では四輪業界のために『日刊自動車新聞』を、二輪車新聞社では二輪業界のために『二輪車新聞』(1959年創刊)をそれぞれ発行していました。つまり、一般ファンの皆様のために雑誌を、業界のために新聞を発行し、業界の健全な発展に寄与していこうというのがモーターマガジン・グループの企業趣旨でした。

たまたま、二輪車新聞社はモーターマガジン社と隣り合った編集部で業務を行っていたことから、このような看板となりました。

また、看板の一番下に日本オートバイ連盟(MFJ)の名称が出ていますが、これは、MFJとモーターマガジン社の間には密接な関係があったからです。

1950年代、ホンダをはじめとする二輪車メーカーにはマン島のTTレースなど本格的な国際レースに参戦したいという機運が盛り上がってきました。そこで国内に二輪車レースを統括、運営する新組織の設立が望まれ、1961年に『オートバイ』が中心となって新組織としてMFJが作られました。MFJの設立当初は事務所がモーターマガジン社内に置かれていたため、連盟の看板もここに掲出されることになったのです。その後、MFJは二輪レース界の基礎づくり、および発展のため尽力されたことはご存じのとおりです。なお設立当初の名称は、モーターサイクル連盟ではなく、オートバイ連盟と言っていました。

二輪車レースと言えば、1960年代からのTTレースや世界ロードレース選手権シリーズなどの国際レースでの日本製バイクの活躍こそが、戦後における日本の工業力の技術水準の高さを広く世界に知らしめたといっても過言ではないでしょう。 

二輪車新聞 元編集長 小川孝

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