このB8の第1回全国モトクロス大会1〜6位独占に一つの秘話があるという。それはモトクロス大会が開かれる1年前の62年11月のことだ。

鈴鹿サーキットがオープンし、その開幕レースが開かれた。これにカワサキの代理店であった兵庫メグロ販売の西海義治社長(元プロレーサー)が見学会の実施を呼びかけ、当時、単車事業現場で中心的なメンバーだった高橋鐵郎氏をはじめ、中村治道氏、川崎芳夫氏、田崎雅元氏、古谷錬太郎氏など、20人近くがバスを仕立てて参加した。

この鈴鹿サーキットのレース見学会に触発され「うちでもレースに取り組もう」ということになった。しかし、考えてみると、当時のカワサキにはレースマシンの開発に詳しい人がいなかった。このため西海社長が、社長子飼いのメカニックの松尾勇氏を、兵庫メグロ販売からカワサキにトレードすることにし、発動機事業部製造部に転籍とした。

とりあえずモトクロスから始めることにし、B8をべースにしたモトクロスレーサーの開発にあたった。1年間に渡る懸命なマシン造りで、約10台のモトクロス車が完成。青野ヶ原(兵庫県下)のMFJ第1回全国モトクロス大会に出場し、6台全車が1〜6位を独占する快挙となったものである。

後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」とおっしゃっていた。ともあれ、カワサキの単車づくりは継続されることになって、64年1月、それまで発動機事業部の中にあった単車事業は、新しく「単車事業部」として独立し本格的な体制が確立された。

この事業部スタートの条件として、「広告宣伝課の設置」があり、向こう3年間に渡り「本社(川崎航空機)の開発費の中から、毎年年間1億2000万円の予算を与える」ことになった。

新設の「広告宣伝課」や「販売推進課」では、この年間1億2000万円の広告宣伝予算割に頭を痛めた。当時のカワサキには東京・大阪・名古屋など大都市での需要は低く、“カワサキは登坂力のある実用車”のイメージが強く、九州や東北、北陸などでの需要が高かった。そのため、テレビなどを使った宣伝では“費用対効果”を出せない。

結局、ジェットエンジン事業部から、下取りのヘリコプターを約1000万円で購入して、地方を中心に全国各地で“ヘリコプター体験搭乗会”を開き、カワサキのブランドイメージを高めた。あらかじめ各地で、ヘリコプター搭乗希望者を募り、その現場では製品展示会などのイベントも開いて、効果を高めた。この企画は全国各地で人気となり、大成功だったようである。

そうして65年には、単車事業本部に格上げとなり、本部長には本社の常務取締役の役職にある岩城良三氏が就任した。この岩城本部長により米国現地生産の“リンカーン工場”建設が進められた。さらに、カワサキはこの後69年に、グループ3社(川崎重工業・川崎航空機事業・川崎車両)合併もあり、また、単車事業も順調に発展。カワサキが本格生産を始めて10年が過ぎた1972年秋には、カワサキ“Z”が発売され新たな飛躍の時代へと進んだ。(つづく)

画像: 米国でカワサキ車を現地生産するため「リンカーン工場」の建設を進めた。右から3人目が、この建設を指揮した川崎航空機事業・常務取締役単車事業本部長の岩城良三氏。その左隣が同単車事業本部企画室課長の浜脇洋二氏(川崎重工業退職後にBMWジャパン社長に転じ、BMWの2・4輪販売網を全国に確立するなど大きく貢献した)。一番左はカワサキの米国現地法人・KMC市場開発担当の杉沼浩氏(川崎重工退職後にMFJに転じ長らく常務理事としてMFJの体制強化に貢献した)

米国でカワサキ車を現地生産するため「リンカーン工場」の建設を進めた。右から3人目が、この建設を指揮した川崎航空機事業・常務取締役単車事業本部長の岩城良三氏。その左隣が同単車事業本部企画室課長の浜脇洋二氏(川崎重工業退職後にBMWジャパン社長に転じ、BMWの2・4輪販売網を全国に確立するなど大きく貢献した)。一番左はカワサキの米国現地法人・KMC市場開発担当の杉沼浩氏(川崎重工退職後にMFJに転じ長らく常務理事としてMFJの体制強化に貢献した)

二輪車新聞元取締役大阪支社長 衛藤誠

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