二輪車新聞社便り

2018-10-22

販売店組織化の道程① 群雄割拠時代を経て

最初にお断りしておきたいことは、以下の文章は、筆者の老いぼれた記憶と古い僅かな資料に基づいたもので、少なからず誤りもあろうかと思う。この誤りに多大なご迷惑や不快な思いをされる関係者の皆様に予め深くお詫びを申し上げておきたい。

日本の二輪車業界は、戦後まもない19489年(昭和2425年)以降、国産二輪車が”戦争の落とし子”的に急速な発展をみた(戦前は欧米を中心にした外国製二輪車が中心)。ピーク時の54年(昭和29年)前後には、国産二輪車メーカーが、100社近くもあったという。

といっても、現在のように、近代的な工場で一貫一生産しているところはごく僅かで、多くはエンジンやフレームなど各部分品を仕入れ、少量をアッセンブリ(組み立て)的に生産する方式がとられていた。

そうした中で当然、これらの販売店も例えは悪いが”雨後の筍”のように増えた。しかしまた、スタートして数カ月で姿を消す店も多くあった。群雄割拠する戦国時代のように、業界での生き残りをかけて切磋琢磨するなかで、ようやく全国的に二輪車販売業者として体裁が整ってきたのは、55年(昭和30年)以降である。(因みに弊紙発行は59年/昭和3411日。)

55年当時もまだ、国産二輪車メーカーは70社近くが群雄割拠していた。そうした中でも頭角を現す主力銘柄は、それぞれ全国に地域総代理店(卸店/メインディーラー)を設置し、その下に複数のサブディーラー(小売店)を設置させるなど、流通体制を整えた。この体制をより強固なものへと確立させるため、メーカー/メインディーラーは、サブディーラーの組織化の推進を図った。

例えば、”東京○○○会”、”大阪○○○会”といったような形で。そうした多くの組織には会長など役員も建前として置いた。しかし、こうして設置された”○○○会”は、会員たるサブディーラーの自主的な運営ではなく、あくまで運営の主体はメーカー/メインディーラーであり、販売強化政策として行われた。

ただ、組織の事業活動としてサービス(整備)講習会やサービスコンテスト、販売実績による表彰制度、会員の親睦をはかるための各種行事なども行い、会員のメリットを高めたが、これもあくまでメーカー/メインディーラーの販売強化政策の一環であり、会員たちの自主的な運営によるものではなかった。だが、これが販売店組織化の土台になったことは確かである。(つづく)

二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠