(株)ケイ アンド エイチ 代表取締役 上山 力氏
ショールームで取材に応じる上山代表
1992年、当時所有していたSR500のシートを見に店を訪ねたのが最初です。工場から出てきた中山(博氏)にシートの購入を検討している話から、そのうちバイクの話題になり「タンクを交換したいのだけど、既製品で欲しいものがないからタンクを作りたい」と言ったら「タンクはいきなり作れないだろ」と言われて、それでは何が作れるの?と聞くと「サイドカバーやフェンダーなら作れるかもしれないけど、それもいきなりは作れないよ」というやり取りは覚えています。
製作現場も見せてくれたのですが、シートを見に行ったのに、それについて営業をされることもなく「またコーヒーでも飲みに来いよ」と帰り際に言われました。それが中山との最初の出会いです。
その頃、インテリア系の専門学校に通っていたのですが、中山から「今度モーターサイクルショーに出展するんだけど、妻(専務)が子どもの運動会に出なければならないから手伝いに来てくれ」と言われたのをきっかけに、その後も何度か人手が足りない時に誘われ、学校を休み仕事の手伝いに行くこともありました。夏休みに入ると毎日通いました。何かを製作できるわけではないので、何十個もあるFRPの型に離型剤をひたすら塗るとかそうした作業をやってましたね。
卒業前に「(就職は)どうするんだ」と聞かれ「一度社会人になってちゃんとスーツを着て仕事をする」と伝え、就職しました。半年くらいで辞めてしまったのですが、不動産の営業です。当時はバブル崩壊後で、業界も売上げの落ち込みが激しかったのですが、私はなぜかとても成績が良かったんです。言いづらいことをオブラートに包んだりせず正直に言うことでお客さんから信頼を得ていました。それは後にメーカーとして基本理念を考えた時の教訓となっています。
会社を辞めて店舗内装の助監督をしていましたが、工期が迫ると職人の手伝いをすることもあり、やっぱり手を動かすのが面白く、中山に物作りの仕事がしたいと相談すると「まぁオマエのことはよく分かっているからいいよ。来いよ」と、言ってもらいアルバイトとして働き始めました。
ところが、働き始めて1カ月くらいで中山が心筋梗塞で倒れてしまったんです。できる作業がなくなったことで、手に職がないとはこういうことなんだなと危機感を抱きました。自分だけにしか出来ないことがないと、いつでも仕事がなくなるんだな……と。よそのアルバイトで凌いでいると、まだ体調万全ではなく作業は出来ないにしても、教えることはできるからと中山が呼び戻してくれました。
当時は中山が開発を担って、外注先への発注も含めた量産体制を整えていました。開発していたのはFRPを用いた原型の製作です。創業時はカフェレーサーがブームで、初めて量産体制を取ったのが、CB400four用のテールカウル付きシングルシートでした。
創業者の中山博氏(右)と秋元紀一氏(写真:K&H)
90年代初頭はスチール製のタンクやステンレス製のフェンダーなども製作してましたが、今の主力商品であるシートは当時、外注していました。
98年に「eggs」というブランドを立ち上げました。カフェレーサーブームが下火になり会社の売り上げがガクンと落ちた時期でした。何かやらなければいけないと思い、自分でデザインした商品を業務終了後の夜に隠れて作ってました。それが25周年でSR400用に作った商品です。
ところが、今までのK&Hとガラッとイメージの異なる造形で、中山に「これはK&Hの名前では出せない」と言われました。それでも、若者向けの新しいブランドを起こしたいと、eggsのロゴデザインまで用意し説得しました。発売すると媒体への露出も増え、売り上げも伸びていきました。
以後は、中山も売れるものは私に任せて自分は違うことをやる、という体制に移行していきます。中山は経営者というよりどちらかというと芸術家肌で、時おりハッとするような商品を作るんです。だから、ときに“ホームラン”を打ちました。でもその反面、空振りも多かったんです。売れたら売れたで製造が大変だし、ホームラン後は反動の落ち込みもありました。空振って売れなければそれはそれで大変でした……。
創業25周年を機にSR400用に「eggs」ブランドで製作。タンクに25の数字とK&Hの文字が入る
隠れて製作 別ブランド立ち上げ認めてもらう
私はホームランを打つ才能がないことを理解していたので、ホームランは打てないにしても空振りしないよう、平均的に売れる商品作りを心掛けました。
当時、外注でマフラーを製作し販売したこともあり、マフラーメーカーの道も考えましたが、99年以降は騒音規制などが入り、今後は排ガス規制など環境性能もさらに厳しくなり、今の会社の規模では難しいと判断しました。それから、これまでも業績の良かったシートを社内生産することに踏み切りました。
しかし、今のようにインターネットで検索する術もなく、製作に必要なスポンジの発泡機やウレタンの原材料など、どこから調達すれば良いのか全く分かりませんでした。資材を取り扱う商社と取引ができることになっても「何を作るの? 何個作るの? オートバイのシート? そんなの売れるの?」と横柄な態度を取られ、悔しい思いをたくさんしました。
機械や原材料をなんとか揃え商品化に向け取り組んだのですが、最初は全く形になりませんでした。スポンジが綺麗に発泡させられないんです。機械メーカーや原材料メーカーへ訴えても「しっかりした製品を納品しているのだから出来るはず」というばかり。
取引先から海外でバイクメーカーのシートを製作している会社を紹介してもらい、工場見学するなどしてヒントを得たりもしました。物(商品)が出来ず高価な材料と時間ばかりを費やし毎日悔しい思いをしつつ、何とか現在のシート製作の要である“シートベース一体にしたインジェクション成型”を確立することができ、理想とする商品が出来るようになりました。形にするのに1年、商品化するまで2年以上かかりました。それまでは既存の商品を販売してなんとか売上げを立てていました。
一方、当時は会社としてもTVや雑誌などで露出が増えてきた時期で、私が会社の宣伝・広報を一手に受けていました。巷ではトラッカースタイルのブームがあり、中山の好みとは違うものでしたが、その辺りの層へ向け発信していきました。ただ、段々とカスタムブームが助長していくと、バイクに乗るというより目立てば良いというスタイル重視の層も増えてきました。見た目のみに評価されることにつまらなさを感じるようになり、徐々にそれらに対して疲弊してきたんです。
それらの反動や、元来走ることが好きだったのもあり、オートバイ本来の楽しさを追求する方向へ転換していきました。自分が今、オートバイを操作しているんだという実感を覚えるには、車体に対してどの位置に着座すればよいのか。そんなことを考え始めた時期でもありました。そこから今のシート開発に繋がる実走テストに切り替えました。
休日に開発車両を勝手に乗りまわし、中山に怒られたこともありました。経営も厳しい中、燃料代や高速代を請求し「そんなに走る必要があるのか?」と言われ、走らないと分からないと口論することもありました。(続く)