二輪車新聞創刊10周年を記念した海外特集「東南アジア版」発行を、どういう思いで企画したか。これについては、発行にあたり二輪車業界関係者に向けた「発行のお知らせ」とした企画書の中で書かれている(以下は昭和43年当時のもの)。

『日本の二輪車は今や国際商品として全世界に雄飛し、外貨獲得の大きな担い手となっていることは周知の通りであります。特に最近は、これまでやや低調気味だった東南アジア市場においても急速な伸びを見せ始め、将来に明るい見通しがもたらされてきています。こうした完成車輸出の飛躍にともなって脚光を浴びてきたのが、補修用部品・用品です。即ち、日本製二輪車の部品及び用品の輸出であります。(中略)かかる実情に鑑み、「二輪車新聞」では、このたび海外特集「東南アジア版」を臨時発行することになりました。この特集は東南アジア各国市場の現状と見通し、現地業者及びユーザーの日本製品に対する声を現地取材する他、国内に於ける部品輸出の問題点と今後のとるべき姿勢、部品輸出商社および品目別輸出メーカーの紹介などを解説記事、統計グラフ、一覧表でまとめ、今後の二輪車全般(完成車・部品・用品)に関する輸出振興に寄与しようと試みるものであります。(後略)』

少々大上段に構えすぎのきらいもあるが、当時の気持ちそのままだと思う。

海外への現地取材出発は2月中旬。沖縄、台湾までは橋本支社長と2人で、気分的にも楽だった。特に最初の沖縄は、当時まだ外国とはいえ、日本語で仕事が出来る気楽さがあった。しかし、取材する感覚はやはりどこか違う。

橋本支社長は広告業務が中心だが、現地業者への訪問は2人一緒。主な訪問先は沖縄ホンダモーターと琉球ホンダ販売、沖縄スズキモーター、ヤマハ製品を扱っている沖縄スバル自動車、カワサキ製品を扱っている沖縄重工業とスクランモータースなどの日本製二輪車の代理店をはじめ、部品・用品商など。この他、私1人で沖縄自動車販売協会、那覇商工会議所、さらに琉球警察本部へも足を運んだ。沖縄で4日間を費やして、5日目は次の訪問地台湾へ。

台湾の台北空港では入国にトラブル。“商売道具”の録音機(当時のものはA4判サイズより大きい)の持ち込みはダメというもの。入国が観光なので、“仕事で必要”とも言えない。入国後に“商品として売買される恐れがある”ため持ち込みはダメというわけ。

しかし、こちらとしては、録音機がないと仕事が出来ないため、とにかく持ち込みが必要。そのため、言葉がわからないふりをして、ひたすら“OK! OK!”と叫び続けて約30分。遂に相手も根負けしてか、最後には“OK!”と大声で叫んで通してくれた。

当時、台湾国内の多くの人は日本語が通じるため、取材活動に不自由はなかった。しかし、空港の係官をはじめ役人の多くは戦後、中国本土から来た人で日本語が通じなかった。そのため、言葉が通じないふりができ、おかげで録音機の持ち込みができた。(つづく)

画像: 昭和43年4月1日付の二輪車新聞「東南アジア特集版」より

昭和43年4月1日付の二輪車新聞「東南アジア特集版」より

二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠

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