1961年以降数年間、MFJ(日本オートバイ連盟/後に日本モーターサイクル連盟に改称)は本部事務所がモーターマガジン社内に置かれていた。

これはモーターマガジン社が発行する月刊オートバイが中心となり、国内二輪車メーカーをはじめ同業界の賛同を得て創立をみたもの。また、同時にモーターサイクルの国際機関であるFIM(世界モーターサイクル連盟)にも加盟し、当時ますます活況を呈してきたFIM主催・あるいは承認の世界ロードレース選手シリーズやTTレースなどにエントリーする日本窓口にもなった。

その後、世界の各種二輪車レースはますます活発となり、日本人ライダーや日本製二輪車のエントリーも一段と増えた。

斯かる状況の中で、MFJ本部事務局を一私企業であるモーターマガジン社内に置くことは好ましくないということで、国内二輪車メーカーをはじめ、関係団体などによって新しい独立した連盟本部事務局を設置した。これにはモーターマガジン社および二輪車新聞社社員も3名が転籍した。

さて、長々とMFJの生い立ちに触れてきたが、本来の狙いはその事ではなく、MFJの連盟本部事務局がモーターマガジン社内にあったことによる“事の展開”である。つまり、モーターマガジン社には、当時二輪車新聞社も同居していた。この両社は木村襄司社長の下で、グループ企業として兄弟のような形で業務を遂行しており、そこにMFJ本部事務も同居した。

こうした状況の中で、モーターマガジン社の月刊オートバイが中心となり、これに二輪車新聞社も加わってMFJを冠に頂いて「MFJ交通安全二輪車ラリー」の展開となった。

開催の目的は「レジャースポーツとしての二輪車を広く普及促進するため、二輪車ラリーを通じてその底辺の拡大を図るとともに、ラリー競技によって安全な運転と正しい運転マナー、運転技術を修得してもらう」といったもので、これには多くの業界関係者からも賛同を得た。

それに目を付けた大阪支社(モーターマガジン社と二輪車新聞社の支社は同居で表裏一体の業務)は、直ちに行動を開始。支社が管轄する西日本エリアでラリー開催を計画した。

まず、手近なところで関西地域での開催となった。また、せっかく開催するからには、この開催状況を広く業界内にもアピールし、ラリーに対する理解と認識を高めようということで、「二輪車新聞地域版」も併せて発行することになった。実際に第1回の「関西地区・MFJ交通安全ラリー」がスタートしたのは、1962年(昭和37年)で、同時に「二輪車新聞関西版」の第1号も発行された。

しかし、翌年の開催時には、MFJ本部事務局がモーターマガジン社から離れるとともに、組織体制も刷新された。このためラリー開催の冠に“MFJ”を使用しにくくなった。結局、MFJ公認となり、主催は月刊オートバイ・読者友の会、二輪車新聞は後援ということになった。そして第2回目のラリーは「オートバイ友の会二輪車関西地区ラリー」の名称に変更された。この後は大阪支社管轄内の中国地区、四国地区、九州地区も同ラリーを積極的に開催し、ラリーファンやラリーマニアも急に増加し、参加者も当初50名前後だったのが1開催で200人近くまで増加してきた。もちろん二輪車新聞地域版も、このラリー開催と並行して発行を続けた。(つづく)

画像: 1963年当時の東京都港区芝田村町(現在の港区新橋6丁目)本社ビル

1963年当時の東京都港区芝田村町(現在の港区新橋6丁目)本社ビル

二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠

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