私は1958年(昭和33年)4月に日刊自動車新聞社大阪支社編集部に入社。2・3輪車担当に配属された。その入社した年の11月末、支社長から呼ばれ、「君は来年から二輪車新聞社に転籍してほしい。ついてはその新会社で創刊する二輪車新聞の編集会議が12月10日、東京の新会社で開かれるので出席して下さい」と、いきなりの命令で、私にとってはまさに青天の霹靂だった。当時、支社編集部には私を含め6人のメンバーがいたが、私の転籍には全員反対で、支社長との話し合いが続いたが、この顛末は省略。
二輪車新聞の発行準備は、東京では早くから進んでいたのかもしれないが、私としてはまったく初めて聞く話。
当時、日刊自動車新聞社とモーターマガジン社はグループ会社だった(現在はまったく関係がなくなったが、その経緯は省略)ことから、日刊自動車新聞社の二輪車部門を切り離し、新たに設立する新会社で「二輪車新聞を発行する」となったもの。これには本田技研工業をはじめ主要二輪車メーカーからの要望もあった。
ともかく、私は58年12月10日、お濠を渡り皇居の中にある二輪車新聞社本社に初出社。まず、木村襄司社長に着任の挨拶をすませた後、編集会議へ。そこには既に、編集主幹の山添幸治郎氏、編集長の根本昭三氏をはじめ部員スタッフ4名が揃っており、私を含め総勢7名の会議である。残す時間は20日間。この間で作りあげ、59年1月1日付の創刊号を発行しなければならない。紙面は新年号ということで12ページだった。
当時、国内には25社前後の二輪車メーカーが存在した。この主要メーカーの沿革や製品の紹介、国内二輪車業界の現状や生産・販売の推移、整備、補修部品の現状と問題点、モータースポーツなど掲載記事を決めるとともに、「この紙面割りで果たして大丈夫か?」と思うほどの大ざっぱさで紙面割りがされた。山添氏が色鉛筆を持って「ハイ、これはココ。ソコにはこっち」といった具合いにテンポよく決められていったのが、今でも記憶に残っている。
そうした慌ただしい中で創刊号の製作準備は進められ、59年1月1日付けで創刊号は予定通り産声をあげた。
二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠