台湾では、日本の完成車メーカー製品のKD(ノックダウン/現地組み立て)工場をはじめ、部品・用品メーカーや販売店、二輪車販売店を訪問した。どの会社でも日本語が通じ、不自由はなかった。特に戦前から台湾に住んでいる人は、多くが日本語の勉強をしているため、当時25歳以上の人は日本語での日常会話ができるのだった。

ただ、台湾の人は大変プライドが高く、“ノックダウン”という言葉を嫌い、あくまでも“合作”だという。つまり、日本からエンジンやフレームなど部品の一部を輸入し、これに台湾国産の部品を合わせ、台湾の技術者や従業員により造り上げられているので“台日合作”だというもの。

取材した合作工場は、ホンダ系の三陽工業(台北)と光陽工業(高雄)、ヤマハ系の功學社(台北)、スズキ系の鈴木工業、カワサキ系の永豊工業の5社で、それぞれ独自性を持ち、予想していた以上に体制も整った立派な会社で、経営幹部はほとんどが台湾現地の人たち。しかし、言葉は日本語を使い、前にも触れたとおり取材や広告営業活動に全く不自由はなかった。

三陽工業では総経理(社長)の張國安氏に案内されて社員食堂で、社員の人たちと一緒に同じメニューの昼食をご馳走になったが、品数も多く、味も良く、特にボリュームの多いのにびっくりした。また、取材の足はもっぱらタクシーを使わせてもらったが、運転手さんは皆が上手な日本語で案内してくれた。高雄市に所在する光陽工業には、日本の新幹線並みの特急列車で往復したが、乗車すると“お茶”のサービスがあり、昼時分には弁当も配られた。

当時、台湾には純国産の二輪車メーカーもかなりあった。しかし、多くは小規模なものだったが、そんな中にあって日本系の合作工場にも匹敵する規模を持つ「新三東工業」に訪問し、工場見学をさせてもらった。

ここでビックリしたのは4階建て(3階建てだったかも?)工場で、組み立てラインが、上から下へと流れて1階で完成車になるという仕組み。この他部品・用品工場やショップにも何社か訪問したが、鋳物(砂型を使用)系や光もの・曲げもの(メッキ物)系は、全般に品質も良く、バラエティに富んだ商品構成だったが、スプロケットなど焼き入れ技術を必要とする製品は、品質的にかなり劣る感じだった(これは40年前のことで、現在は精度や品質が大きく向上している)。

台湾も沖縄とおなじように移動1日・活動4日の延べ5日間を終え、6日目は次のタイ・バンコクへ。ここからは橋本支社長とも別れて1人旅。言葉もダメ、土地不案内で淋しく、心細い。頼りは、日本を出発前にお願いしていた“日本の二輪車各メーカー”からの現地出先への“訪問をよろしく”の連絡であり、これが“うまく通じているか”“充分に対応していただけるかどうか”が心配。

橋本支社長の見送りを受け、1人タイ行きのノースウエスト機に乗り込んだ。(つづく)

昭和43年4月1日付の二輪車新聞「東南アジア特集版」より

二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠

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