タイの空港に向かい、さて、面倒な出国手続きかとウンザリしていた時、日本語で私を呼び出すアナウンスが空港ロビーに流れ、“出国カウンターに来るように”と言う。

“こんな所に私の知人はいないはずなのにと”思いつつ、出国カウンターに。そこには中年のタイ人女性がいて、「ホンダさんからあなたの出国のお手伝いをするように」と頼まれたので、出国のお手伝いをしますとのこと。この女性は現地の旅行コーディネーターで、タイホンダを訪れていた別のお客様2人の出国コーディネートのため来ていたもので、私も同じ時刻に出国することを知っていたホンダの人が「二輪車新聞の人が空港にいたら面倒を見てやってほしい」と頼んだためらしい(私はそのホンダの人は、たぶんアジアホンダの人だろうが、誰なのか解っておらず、このお礼を今もって行っていないことが心残りである)。

このホンダの客人というのは、若い建築家(後に世界的にも有名な建築家として名を高める)と室内デザイナーの2人で、行き先も同じ香港だった。私は本社の好意で「香港で2〜3日骨休めをして帰りなさい」と言われていたので、とりあえず香港に立ち寄ることにしていた。そうして建築家が「同じホテルにしましょう」と、私が予約していたホテルをキャンセルし、その2人が予約していたホテルに案内してくれた。

このキャンセル料は?手続き一切を建築家が行ってくれたので、これも不明のまま。そうしてこの夜は2人に連れられて“夜の香港”を楽しませてもらった(すべてこの2人のオゴリ)。

翌朝、私は早く帰りたくなり空港に向かい、帰路へ(ホテル代は払った)。2人はマカオに向かうということで(私も誘われたがお断りした)お別れした。

こうして、移動日を含め延べ19日間の海外取材は終わった。あとは原稿作成と、新聞作りの大仕事である。

原稿作成は、3日間、東京・新橋の「第一ホテル」にカンズメで書き上げた。約30%近くは、海外出発前に書き上げていたので、残るは約70%の作業だった。

印刷所での大組み(割付けに基づき植字し組み上げた活字を並べる/現在はこうした作業はない)や校正は本社の編集スタッフで進められたが、大組みにあたり原稿が多すぎたり、少なかったりした際、印刷現場でカットしたり、書き足したりが必要なため、私も立ちあった。実は、私、高校時代のクラブでの活動は新聞部で、夏休み中、地元の新聞社が学校新聞の部員を対象にした「新聞の作り方講習会」を開いてくれ、そこで“見出しの付け方”や“大組みのやり方”を教わり、また、大学時代のアルバイト先(モーターライフ社)で「モーターガイド」なる新聞も旬刊(毎月3回)発行し、大組みを経験していたが、目下は大阪支社勤めで印刷現場に入ることもなく、大変なつかしい時間を過ごした。

特集ページの紙面割りは▼1面=総括▼2〜3面=完成車の輸出実績および各国の保有台数(輸出実績や保有台数のグラフを挿入した解説)▼4面=部品・用品の輸出状況▼5〜7面=部品商社の代表者座談会▼8〜11面=台湾各完成車メーカーの生産状況と統計データ、総営政策、今後の方針と見通し、需要状況▼12面=ベトナムの二輪車状況▼13面=沖縄の二輪車事情▼14〜15面=海外駐在員(タイを中心)の紙上座談会▼16〜17面=軌道に乗ったタイのノックダウン工場▼18〜19面=東南アジア二輪車市場の現状と今後の見通し▼20面=東南アジアの部品・用品市場解説──といったものになったと思う(当時の取材ノートから)。

また、広告は橋本支社長の努力で1面の全3段を除き、各面が全5段〜全7段および突き出しと満杯で体裁を整えた。こうして、計画から約2カ月半がかりの創刊10周年を記念した海外特集「東南アジア版」作りは無事完了をみた。

昭和43年4月1日付の二輪車新聞「東南アジア特集版」より

二輪車新聞元取締役大阪支社長 衛藤誠

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