東日本エリアでのトップは神奈川オートバイ事業協同組合(現・AJ神奈川)で、87年(昭和62年)3月である。

初代理事長は山崎登氏(現・近藤正幸理事長)であった。この正式な設立許可時より前にも任意組織があり、これを母体に設立準備が進められたようで、87年3月に協同組合としての正式な設立許可を得たもので、全国3番目にあたる。

この後4番目の協組認可組合は、再び西日本エリアの広島県二輪自動車協同組合(現・AJ広島)で、正式な設立は88年(昭和63年)6月。初代理事長は甲斐敏英氏(現・中桶孝美理事長)。同協組は2年前の86年(昭和61年)6月に任意団体としての広島県二輪中古車組合を設立し、これを母体に協組へ法人組織化を進めたもの。特にこの設立にあたっては、初代専務理事の新江逸己氏の働きが大きかったとされる。

また、組織体制の強化にあたっては、二代目理事長の竹重輝彦氏の功績が大きく評価されている。さらに現・事務局長の大石佳奈美氏は、組合設立(任意団体時も含め)以来、今日まで32年にわたり事務局長を務め、女性ながらも組織運営に長け、甲斐・竹重・迫田忠・中桶の4代の理事長を補佐し、組織の円滑化を図ったとしていると評価が高い。 

法人組織の5番目は、四国に渡り愛媛県二輪自動車協同組合(現・AJ愛媛)で、90年(平成2年)5月の設立。初代理事長は武田俊作氏(現・管信明理事長)である。同組合も1年前の89年3月に任意団体の愛媛県中古車組合を設立し、これを母体として協同組合の法人化組織に発展させたもの。この法人化促進に向けては、当時の広島組合の新江専務理事が積極的な手助けを行った。

また、同組織でも設立以来事務局長(理事)を務める今井信二氏が組織運営の円滑化、組織事業の活性化に大きく貢献してきたとされる。特に同組合の名を全国に知らしめたのは、二輪事業界では初めて愛媛県松山市における“原付バイクのご当地ナンバー”(課税納付証票板)の導入実施に尽力したこと。これは松山市を舞台に展開する司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」に因み“雲の形をしたナンバープレート(雲ナンバー)”の導入で、00年(平成12年)に施行された。

その背景としては、当時NHKテレビドラマで放送され、全国的に「坂の上の雲」ブームとなっており、これをチャンスと愛媛県組合が目を付け、組合内に“プロジェクトチーム”を設置して松山市とともに取り組み実現にこぎつけたもの。

ナンバープレートは白(50cc)、黄色(90cc)、ピンク色(125cc)の3タイプだが、現在は松山市内の原付ナンバープレートの90%以上が“雲ナンバー”となっているのをはじめ、この“雲ナンバー”が欲しくて県下の他市町村や他府県から住居を松山市に移して、“雲ナンバー”を付けるほどの人気となっているという。

画像: 愛媛・松山市の“雲ナンバー”

愛媛・松山市の“雲ナンバー”

さらに、この愛媛組合の設立は、全国オートバイ組合連合会(AJ)設立のきっかけとなった。それは90年(平成2年)、大阪組合・福井二朗専務理事の呼びかけで愛媛組合の設立総会にあたって、兵庫・大阪・神奈川・広島・愛媛の事務局代表が愛媛県松山市に集まり「全国組織化の第1回連絡会議」を開催した。

これを契機として全国組織化の気運が高まり92年(平成4年)までに、延べ5回の連絡会議を開き、93年(平成5年)8月の”バイクの日”には、警察庁を表敬訪問を行うなど、全国組織化に向けた準備活動を進め、遂に04年(平成16年)3月、全国オートバイ協同組合連合の創立総会を迎えることができた(法人登記は4月21日)。

この創立総会に参加した組合は▽兵庫▽大阪▽神奈川▽広島▽愛媛のほか、90年以降に設立された▽東京▽埼玉▽新潟▽愛知▽北海道▽千葉を含めた11組合である。(つづく)

画像: 福井二朗氏(写真)の呼びかけで、全国組織化の第1回連絡会議が開催された。これを契機として全国組織化の気運が高まった

福井二朗氏(写真)の呼びかけで、全国組織化の第1回連絡会議が開催された。これを契機として全国組織化の気運が高まった

二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠

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