今年で創立47年目を迎えたマフラーメーカーのSP(スペシャルパーツ)忠男。創業者である鈴木忠男さんはヤマハのファクトリーライダーとして、1969年に全日本モトクロス250ccクラスでチャンピオンを獲得。その後、海外のモトクロス競技にも参戦し優勝するなど活躍。後年にはレーシングチームを設立し、世界で活躍するライダーを数多く輩出してきた。本稿ではマフラー事業を創業した当時を寿美子夫人と振り返る。

スペシャルパーツ忠男 代表取締役 鈴木忠男さん
           専務取締役 鈴木寿美子さん

「家業を手伝うのがレースの条件」

忠男「実家は“極東”という会社で、旋盤機械を使った金属加工の会社だった。兄貴が社長なんだけど、兄貴からレース活動をする条件として『家業を手伝うこと』を言われていたんだ。なので、当時参戦していたレースは真剣勝負だけど、気持ちとしては趣味としてやっていたんだ」

「バイクを走らせるのにもガソリンを買うだけで精一杯。レースで稼いだお金を全部バイクに使っちゃうんだよ。レースから帰ってくると、部品を全部外してノーマルに戻して家の周りを走って遊んで、また日曜になるとレースに出ていたのでお金はかかったよ。当時(寿美子さんと)知り合って7年間付き合っていたんだけど、映画を観に行くとかちゃんとデートしたのは全くなかったよ」

寿美子「デートらしいデートはなく、いつもバイクで二人乗りしてツーリング。その後、輸入車に乗るんだけど(シボレー・コルベット)それも二人しか乗れないクルマ。1人目の子どもが生まれた時、2人目が年子だったから、お腹が大きいのに子どもを抱えて大変でした……」

忠男「マフラー事業を始めたのは、それより前にオフロードバイクのリアフェンダーをメーカー向けに製造していたんだけど、それが結構な数が売れ始めてきて軌道にのってからだね。31歳くらいの時だよ」

寿美子「それでお店を始めようかと。ちょうどここ(現在のSP忠男・羽田店)が私の実家で、当時は和菓子屋さんを経営していたんだけど、父がお店を閉めることになっちゃって、閉めるんなら貸してくれないかと頼んで始めたんです。昼間は私が店番で忠男さんは実家の家業を手伝って、18時か19時くらいに仕事が終わると、店にきて交代という感じ」

「お店が元々飲食店だったこともあり、毎晩19時くらいになるとお店に集まって自分たちで作ったバイクのチーム“羽田エンストクラブ”の会合とか開くんですよ。子どもだったから、あんみつやおしることかを食べるんだけどね」

忠男「お店には4人の姉妹が居て、その下に弟がいたんだけど、そいつと一緒によくバイクで走りに行っていたんだ。で、そのうち姉妹の1人と付き合うようになるんだけど、その三女がカミさん。SP忠男の専務で本人は『なんにもせんむ』とは言うけど、彼女がいたからSP忠男は続けてこられた。感謝している」

寿美子「独立して最初の頃はバイクの用品販売がメインだったんです。でも、始めたのは良いけど当時、ウチの商品は何もなかったの。一応、用品店なので商品を飾らなくちゃならないから、クシタニさんとかコミネさんとかの用品を取り扱っていたので、当時のコミネの専務さんに相談したら『ある時払いで良いから』というので、いろんな商品を店頭に陳列できるよう配慮してもらって、どうにか形になったんです」

「点数も多かったから金額も相当な費用だったんだけど、信用商売で後払いにしてもらった。応援してもらったんですよね。だから今でも感謝しています」

「いくら作っても注文に間に合わない」

忠男「ただ、他でも同じ商品を売っているから、徐々に売れ行きが落ちてきたんだ。自分の実家ではバイクの部品とか作っていたこともあり、なんとかしようと、工場にあったバイクの本を見るとホンダ・モンキーのカスタムパーツが出始めたことを知ったんだ。それで、マフラーを作ってみようと思った。だから用品販売からすぐに(メーカーへ)変わったね」

「ここは元々、商いをしていて彼女は商売人の娘だからね。そういう商売の嗅覚には長けていたよ。彼女は大泉(SP忠男・大泉善稔常務取締役)と、今どんなバイクが売れているのか相談しながら製作を進めていた。モンキーのマフラーはよく売れたよ。あと、僕は旋盤もやっていたからね。製品を作るのは自分たちで完結できた。極東でそういう旋盤技術をやってきていたから。今でも役に立っている」

「それと、周りに恵まれたというのもある。当時、発送業務を手伝ってくれた仲間もいて、そういう(助けてくれる)連中が多かった。マフラー作りも昔レースメカニックだった仲間がいて、独自のアイデアを持っていて、頭の中にイメージがすでに入っている。あと、ものすごくこだわる。ちゃんと性能が出るまできっちり仕上げてくれるんだよ。今でもずっと取引している。ウチはそいつと知り合ったことがラッキーだったね」

忠男「そうしてマフラーの製作が中心になっていくんだけど、作っても作っても注文に間に合わない。出来ても1日10個とか。事業を始めたころ昼間は8時から19時まで家業だから。それが終わってから21時まで、こっちに来て作業をしていた」

「お店は21時まで開けていたんだけど、21時から自宅に帰ってそれからカミさんと2人で屋上に上がって、マフラーに耐熱塗料のペイントを塗って、乾かしておく。それが終わったら、今度は発送作業に移るんだけど、ずっと働きづめ。うん。本当に寝る暇がなかった。好きなことだったから全然嫌じゃなかった。毎日毎日楽しかった」

画像: 東京都大田区羽田で創業した当時のSP忠男

東京都大田区羽田で創業した当時のSP忠男

寿美子「商売を始めて6年目で、どんどん忙しくなっちゃって。私は当時、自動車の免許を持っていなかったんですが、ウチの社員が車両トラブルで現場に引き取りに行くと、その間お店が留守になっちゃうから免許を取ろうと思って36歳で取ったんです。そしたら、すぐに車両を引き取りに行く事になったんです」

「でも、会社にはトラックしかなくて。運転もそうですけど、慣れない遠方ということもあり、私1人じゃとても怖くて行けないからと訴えたの。その時、休みで遊びに来ている高校生の男の子がいて免許は持ってないけど、一緒に出かけて引き上げてきた。すごいことですよね。初めてクルマを運転したのがトラックで、高速道路を走るのも初めて。本当にどうやって走ったらいいのか、もう命がけだった」

「他の二輪部品も作ってきたけど……」

忠男「〈質問=ステップやキャリアなどの製作・販売はなかったのか〉やったよ。やったけど、やっぱりそれって簡単にできるじゃない。いろんなとこで作っているからね。一応、ステップは作ったよ。でも、他と同じだもん。それよりもうちが得意な所を進めた方がいいわけだから。なので、マフラー製作一本だよ」

「創業まもない頃、オートバイ(二輪専門誌・月刊オートバイ)の富士スピードウェイでやっている貸切イベントにホンダ・CB250をデモ車で走行させたんだけど、サイレンサーを抜いて走ったらすげえ遅いんだよね。もうスカスカで力がなくて、すぐにサイレンサーをノーマルに戻すと、すごいスピードが出てね。そういうの(排気のメカニズム)も全然わかんなかったからね。格好だけかと思ったんだけど、それじゃ駄目だというのが、段々わかってきたんだよ」(つづく/文中敬称略)

商品の名前は映画のタイトルから

画像: 最初のブランド名である「FEREX」フェレックス

最初のブランド名である「FEREX」フェレックス

忠男「日本で最初にマフラーに名前(商品名)をつけたのは僕だからね。今ではいろんなマフラーに名前がついてるじゃん。一番、最初はウチだから。由来は当時、テレビ番組で『コンバット』という映画があったじゃない。そこで閃いて、そこから名前を拝借したんだ。4サイクル用のマフラーは“コンバット”で、2サイクル用のマフラーは“ジャッカル”なんだけど、ジャッカルも映画のタイトルから付けた」

「ちなみに最初のブランド名は『FEREX』というんだけど、それは家業である極東=FarEastとREX=ラテン語で王様という意味を合わせた造語。ちゃんと商標も登録したんだよ」

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