戦後の日本経済復興のシンボルであり、稀代の名エンジニアと称され、今なお世界中で多くの人を魅了し続ける本田宗一郎。そんな本田氏を師と仰ぐ先人たちは、日本はおろか海外にもたくさんいらっしゃると思います。ただ、「本田宗一郎のレーシングスピリッツを長年にわたり熱く継承し続けた方」となると、多くはいないかもしれません。2022年に他界された谷口尚己選手はその一人です。

故人となられた谷口氏ですが、ここではあえて尊敬の念を込めて「選手」とお呼びします。

谷口選手がホンダに入社したのは私が生まれた1954年。そんな私に現役当時のことをつい昨日のことのように語るその眼差しは、70歳と思えないほど生き生きとしていました。

マン島TTレースで走った20代から50年近くも経過していながら、最新バイクでライディングフォームのチェックを繰り返し、毎日のようにハイパワーなバイクを自在に操るためにフィジカルトレーニングを欠かさなかったのも、すべて本田氏のレースにかける意気込みに心底惚れていたからでしょう。

熱烈な本田宗一郎ファンであり続けたこと以上に、バイクが以前よりもますます好きになっていることも谷口選手の若々しいお話しぶりから窺い知ることができました。最新バイクに投入された新技術に対しても、まるで少年のように興味を絶やさない方でした。

好奇心が萎えることなくホンダとバイクを愛し続けた谷口選手は、2度にわたって切手の人となりました。

1度目は1998年。マン島の郵政公社がホンダ創立50周年を記念し発行した切手です。図柄は1959年のマン島TTレースで谷口選手がRC142で疾走する姿。2度目は2009年、ホンダのGP参戦50周年を記念して、1950年代の代表ライダーとして切手に採用されました。

日本人として初めてロードレース世界選手権で入賞し、ポイントを獲得した人物という理由があったかもしれませんが多分、レースでの活躍もさることながら、地元の熱きファンやマン島TTレースの関係者から広く慕われていたからだと思います。

2度にわたって海外の切手に登場した日本人は他にいないという話題性で、谷口選手は日本の大手新聞社などマスメディアにも多く取り上げられました。しかし、彼は我を忘れることがなかったように思います。私が谷口選手を取材した時も、己の功績を自慢することは一切ありませんでした。

「レースで走れたのは私の力ではなく、エンジニアだけでもなく、レース運営を支える多くの人々がいたからこそ」と温かな眼差しで語ってくれました。他のメディアにも謙虚さを忘れずに語っていました。

1962年、谷口選手は完成直後の鈴鹿サーキットで開催された日本GPで、並み居る海外からの著名強豪ライダーに割り込み、日本人としてはただ一人表彰台に上がるという活躍を見せました。

世界GPシーンでホンダは大躍進を続け、66年にはサイドカー部門を除く全クラスでメーカータイトルを獲得しました。しかし67年にホンダは世界選手権から撤退。走るフィールドを失った谷口選手はホンダを退職し、シンガポールGPに参戦。カワサキのマシンを駆って見事に優勝を飾ったのでした。

31歳の時でしたが、これを機に谷口選手はロードレースから引退しました。「ホンダで優勝したかった」とはご本人から聞いていませんが、ホンダで鍛えられた豊富なレース経験があるからこそ、他社のマシンでもいきなり勝てたのだと思います。

谷口選手はレース引退後、横浜市でレストランを経営するかたわら、ライディングインストラクター、オートバイのイベント出演やデモ走行を行いながら、これからの日本を支える若いエンジニアやライダー達へ、若かりし日の情熱を伝え続けていました。

本田宗一郎氏を師と仰ぎ、レースへの熱い想いを生涯持ち続けた谷口選手。今も素晴らしい師弟の間柄で、天空を舞台に元気よく走り続けていることと思います。

画像: かつてRC142を駆ってマン島TTレースに出場した谷口尚己選手と1959年RC142復元モデル(2009年4月24日、ホテルツインリンク〈当時〉において行われたホンダ世界GP参戦50周年記念レセプションで)

かつてRC142を駆ってマン島TTレースに出場した谷口尚己選手と1959年RC142復元モデル(2009年4月24日、ホテルツインリンク〈当時〉において行われたホンダ世界GP参戦50周年記念レセプションで)

プロフィール

柏 秀樹(かしわ・ひでき) 
1954年山口県生まれ。大学院生時に作家の片岡義男と、バイクサウンドをテーマにしたLPを製作。卒業後フリーランスのモータージャーナリストに。各種海外ラリー参戦も含めた経験を活かし、現在「KRS・柏秀樹ライディングスクール」を運営。全国各地で初心者やリターンライダー、二輪車販売店社長・社員に、安全意識・運転技術改善に役立つノウハウ伝授をしている。ベストセラーになったライディングDVD他著書多数。

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