戦後、国産オートバイの先駆けとして、戦後間もない1946年(昭和21年11月)、川西航空機(1960年に新明和工業に社名変更/兵庫県西宮市)から「ポインター」が発売された。

川西航空機は、川崎航空機工業(現川崎重工業)や中島航空機(現SUBARU)などと共に、戦闘機製造をはじめ日本空軍を支えた航空機メーカーとして名を馳せたが、戦後の平和産業への一環としてオートバイ製造に乗りだした。

当時、国民の大半は”食うこと”に精一杯の時代だったが、一方、”物を流通させて利を得よう”とする商売人も急速に増え、特に古くからの商都・大阪をはじめ関西地域ではポインターの売れ行きは好調。そうして街々には”ポインター預かります”の看板や、”ポインターの駐車禁止”の張り紙も見かけるようになり、ポインターはオートバイの代名詞になるほどに。(後にホンダの「スーパーカブ」がアンダーボーンタイプ原付車の代名詞になった現象と同じように)。

ポインターの後を追って、日本国内にはオートバイやスクーターなど二輪車メーカーが全国各地に次々と産まれ、ピーク時には大小合わせ全国に70社近い”二輪車メーカー”が存在したという。しかし、エンジンまで自社製というところは少なく、エンジンを供給するメーカーもかなりあり、同じメーカーのエンジンを搭載した二輪車も複数あった。

こうなると市場の過当競争は激化し、採算性を低下させ、生産を中止するメーカーも増えた。それは後発の小規模メーカーだけでなく、先陣を切っていた新明和工業も例外でなく、遂に1962年2月(昭和37年)オートバイ事業から撤退し、他事業部門の強化を目指した。発売から16年間でポインターは二輪車事業から消えた。いや、消えてはいない。まだ、大切にポインターを愛用しているユーザーが全国に何人かはいると思う。 

ポインターの生産・発売が中止されて約1年後、私は偶然、新明和工業のオートバイ部門の広報開発を担当していた課長さんと大阪・梅田の地下街でお会いした。課長さんは大きな荷物を抱えていたので、「それは何ですか」とたずねたところ、「実は私、理容器機部門の仕事(散髪屋さんの椅子など)をしているのですが、かつて私たちオートバイ部門の部屋に飾っていたポインターのパネル写真が捨てられようとしていたので、あまりにも可哀想になり、もらってきました。家の書斎にでも飾ってやります」と言う。

その表情がなんとも哀しそうで、私もただ無言で下を向いたままだったのを今でも淋しく思い出す。

画像: 昭和29年1月1日発行の月刊オートバイ誌に掲載された、「ポインター」の広告(左頁)

昭和29年1月1日発行の月刊オートバイ誌に掲載された、「ポインター」の広告(左頁)

二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠

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