心細い気持ちで、タイに到着。飛行機を降りたとたん、地面から沸き上がるような熱気に、まずビックリ。入国手続きの関門もなんとか通り抜け、心細い気持ちのまま空港ロビーへ。

商社の「日商」のタイ現地法人である「日商泰」社員の水谷啓志氏の出迎えにホッとした。日商秦は当時、カワサキ製品のタイ輸入発売を行っており、カワサキからの連絡を受けて私を出迎えてくれたもの。水谷氏がまず私に言ったことは「ホテルを一流ホテルに変えて下さい。この国で商談を行う時、相手は宿泊しているホテルはどこかで判断します」だった。

私が予約していたホテルは、日本語の通じる三流ホテルだったが「私はこの国に商売する目的で訪れたのではなく、訪問先も主に日本の現地法人です。その訪問先でいろいろ面倒を見てもらうつもりですので」と、ホテルの変更はしたくないことを告げた。「そうですか、私は変更した方が良いと思うのですが」としぶしぶ同意し、私が予約しているホテルに案内してくれた。

そのホテルには、日本企業の長期駐在員も滞在しており、いろいろ現地の状況など教えてもらい、予備知識を得ることが出来た。駐在員の話でも「交渉事では泊まっているホテルの格や乗っている車がベンツ以上であることが重要とのことで、日商秦の水谷氏は、私の仕事を心配してのアドバイスだったことを改めて感謝する。

翌日から行動開始。まず最初に、前日私を出迎えてくれた水谷氏のいる日商秦へカワサキの取材。ここには、川崎航空機工業(現川崎重工業)輸出部の人も来てくれており、取材に同席してもらった。次はスズキの現地法人のタイスズキモーターに。ここで今も思い出すのが敷地内にバナナの木があり、たわわに実をつけていたこと(このバナナはどうするのだろうとヘンな気遣い)。さらにホンダでは亜細亜本田麾擢托(通称・アジアホンダ)と泰本田製造(同・タイホンダ)の2つの現地法人。最後にヤマハの現地法人・サイアムヤマハ。

日商秦〜タイスズキモーター〜アジアホンダ/タイホンダ〜サイアムヤマハへと、各社がリレーで私を送り届けてくれ、当初の心配もウソのようにスムーズに仕事が進み、本当によく面倒を見てくれたものだと感謝の気持ちでいっぱいだ。また、タイホンダからサイアムヤマハに向かう途中、激しいスコールに見舞われ、乗用車(ベンツ)が立ち往生したのを懐かしく思い出す。

このタイでは、日本二輪車メーカー系の各社にお願いして「現地駐在員の紙上座談会」に参加してもらった。この取材には思いのほか時間がかかり、各社の取材にまる3日間を費やした。紙上座談会は、各氏に全く同じテーマで同じ質問を行い、これを“座談会スタイル”に紙上で構成するもの。いろいろな事情で1カ所に集まってもらうことが困難な時、やむなく行う編集上の手法。

またベトナムは、当時の“ベトナム戦争”で戦況が激化し“入国しない方がよい”ということになり、結局ベトナムの状況はタイで取材することにした。その頃のベトナム向けの日本製二輪車は、ホンダをはじめほとんどがタイ経由であったため、タイである程度の取材は可能であった。

さらに、タイにおける二輪車需要状況や、部品・用品市場の取材も必要であり、この取材についてタイホンダに協力をお願いしたところ、クルマ(運転手付きベンツ)と通訳を付けて頂き、2日間かかりで取材した。特にオートバイショップや部品・用品ショップが密集する地域は、日本では見られない独特の雰囲気があった。数年前タイを訪れた際、この地を探して訪れたところ、その“二輪車村”はほぼ40年前と同じような雰囲気を残し、大変懐かしく思った。

延べ6日間滞在したタイ・バンコクに別れを告げ、香港を経て帰国することにした。(つづく)

昭和43年4月1日付の二輪車新聞「東南アジア特集版」より

二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠

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