大阪支社における二輪車ラリー(タイムラリー)は、1962年から67年までの5年間に渡り、西日本エリアを中心に関西、中国、四国、九州など支社管轄の各地区で開催した。そのいずれも、各地元大学の自動車部などが“部活の一環”として協力してくれたおかげで遂行できたと感謝している。

コースは前に触れたとおり全行程130〜150km前後、最も長いもので170km近くということもあった。

たとえば関西では大阪城〜三重県・伊賀〜滋賀県・甲賀〜京都府・宇治を経て大阪千里ニュータウンや、大阪城〜京都府・丹後〜兵庫県・但馬〜神戸須磨公園。

中国は岡山県・倉敷〜広島県・福山、四国は香川県・高松〜五色台〜徳島県・日和佐〜高知県・足摺岬などであったと思う。

九州でも2回開催したが、そのうち67年10月、福岡〜熊本城間が最後のラリーになったのだが、詳細は後で。

こうしたコース設定で、最も苦労するのが道路の使用許可申請である。まず、ラリーコースとなる府県の警察本部交通総務課に出向いて、ラリーの開催主旨や実施要領、コースなどを説明し、コース上に当たる管内の各警察署に“道路使用許可申請”にお伺いする旨を事前に連絡して頂けるようお願いする。

この段階まではほとんどがOKとなる。

ところがコース上に当たる各所轄の警察署に許可申請に行くと、本部からあらかじめ連絡を受けていることもあり、多くの場合は申請受付~許可はスムーズに進むが、一部は「本部がどう対応したか知らないが、許可の権限は所轄にあり、交通安全上の理由から許可できない」とか、「十分に検討する」といって検討結果をなかなか出してくれない所轄警察もあった。

こういう場合、コースを練り直して、別の警察署管内を走るコースに変更し、改めて許可申請を行うということもあった。

このように、色々苦労することもあったが、大阪支社エリア内でのオートバイ友の会二輪車ラリーは、年間1〜2回のペースで開催した。

しかし、67年4月の四国地区ラリーに続き、同年10月の九州地区ラリーが最終回となった。

当時、全国各地の街々には自動車や二輪車などの交通量が急激に増加し、そんな中で世間の二輪車に対する声も“カミナリ族(バリバリという排気騒音から名付けられた=暴走族より前の時代)”として非難の方向へと強まってきた。

事実、都市部ではラリー競技が一般交通に迷惑をかけることもあるため、コース選びでは極力市街地を避け、地方の交通量の少ない道を選んだのだが、“公道を使用して行う競技”は、一般社会に理解を求めるには限界が生じていた。

67年10月の九州地区ラリーを最後に中止するという決定があったわけではないが、主催する大阪支社では、暗黙のうちにそうした気持ちが強まっていた。それだけに、二輪車ラリーを続けた過去数年間の集大成として盛大に開催しようと皆が考えていた。そのため、今回は再びMFJに表舞台に出てもらおうと、オートバイ読者友の会・MFJ九州地方本部の共催にした。

この共催については当時九州スズキ販売(旧福岡ホンダ販売)の内野庄八社長が、MFJ九州地方本部の会長(本部長?)をされており、同氏の会社にお伺いし話し合い、決定をみたと記憶している。

二輪車新聞社は後援となり、10月22日の開催になった。また、この日は「秋の全国交通安全運動」の期間中にあたり、福岡県交通安全協会の要請で「参加ライダー全員が”交通安全模範車”のタスキをかけて走行してほしい」(タスキは福岡安協が準備)ということになった。

参加者がどう思うか心配だったが、スタート前のミーティングで説明したところ、全員が心より承諾してくれた。結局、このラリーが交通安全運動の一環イベントに組み込まれた形になった。

コースは福岡市内の東公園入り口前をスタートして、板屋、神崎、久留米、柳川、大牟田を経て、熊本県内へ。さらに玉名、植木を経て熊本城に至る筑紫野平野縦断コース(福岡・佐賀・熊本の3県下)で、全長167km。

この間にチェックポイントは──

①スタートから45.5km地点の「背振山の峠を下りた所/佐賀県下」に第1チェックポイント

②第1から47.5km地点「柳川市の中心部手前・福岡県下」に第2チェックポイント

③第2から43.2km地点「玉名市の中心部入口/熊本県下」に第3チェックポイント

④第3から熊本城横ゴールまでの30.8km

──以上4区間でのタイムラリー競技であった。

このラリーには九州各県からはもちろん関西、中国など西日本全域から100人を超える参加者があり、5位まで延べ14人を表彰した。成績は同点同位とし、出来るだけ多くの人を表彰することにしていた。特に1位になった京都の武市仁一氏は”ミスターラリー”の異名を持つラリーマニアで、大阪支社が開催のラリーの全てに参加し、いずれも上位の成績を収めている(現在もお元気でしょうか……)。

もちろん、ラリーと平行して発行してきた二輪車新聞各地域版も健在で、九州地区ラリーの時は、8ページの臨時増刊「九州版特集号」として同年10月28日付けで発行している。

ラリーを中止後、二輪車新聞地域版は「関西版」だけ現在も毎年夏、7月末~8月初旬(鈴鹿8時間耐久レース特集号の直後)に発行している。もちろん“ラリー”に関連する記事はなく、“関西二輪車市場”を中心とした内容になっている。

画像1: 最後の二輪車ラリーは九州 
交通量増加で公道使用不可に/二輪車ラリー③
画像2: 最後の二輪車ラリーは九州 
交通量増加で公道使用不可に/二輪車ラリー③
画像: 1967年10月28日付の二輪車新聞臨時増刊「九州版特集号」より

1967年10月28日付の二輪車新聞臨時増刊「九州版特集号」より

二輪車新聞元取締役大阪支社長 衛藤誠

This article is a sponsored article by
''.