日本の国産二輪車第一号が世に出たのは1908年(明治41年)とされる。製作者は島津樽蔵氏。車名は島津氏のイニシャルから「NS1号」とされた。車両は空冷4ストローク単気筒のガソリンエンジンで排気量は400ccだった。
島津氏は西暦1888年(明治21年)、大阪船場の貴金属商の長男に生まれ、父親は商業学校への進学を勧めたが、本人は生来の機械好きで、奈良県立御所工業学校機械科に進学し、卒業後は豊田佐吉に憧れて豊田織機に入社。しかし、わずか1年で退職し大阪に戻り、自ら”島津モータース”を立ち上げ、ガソリンエンジンの研究、試作に取り組む。
そうして1916年(大正5年)には、帝国飛行協会と朝日新聞社の主催する「航空機エンジン試作懸賞」に応募し、見事に第1位に輝き懸賞金2万円を手にし、国産航空機エンジンの創設者として新聞にも大々的に報じられたという。同エンジンはル・ローン式エンジン(通称ロータリ・エンジン)空冷V型8気筒90馬力。これにより島津氏は国産オートバイ、国産航空機エンジンの両方の先駆者として広く世に知られるようになった。
引き続き同氏は、二輪車用をはじめとするガソリンエンジンの研究を続け、特にエンジン燃焼室の“燃焼効率の向上”に取り組んだ。その後、広島の東洋工業(現マツダ)にまるまる入社して、オート三輪車の“三角フレーム”(一体化したフレーム/特許を開放し各メーカーで採用)を開発するなど業界に貢献。東洋工業では大阪支店長なども歴任。また、会社は同氏の功績に報い、終身技術顧問として同支店内に個室を構えていた。
さらに島津氏は、二輪車新聞にも創刊1年目頃から約1年半に渡り「エンジン豆知識」のコラムを毎週連載し、読者から好評を得ていた。(ご記憶の人もいるかと思うが。)
そうして同氏が私によく言っていたことは「健康を維持するには、“便秘”に気をつけること。これはガソリンエンジンも同じで、燃焼効率を高め、効率の良い性能を確保するには“エキゾーストパイプ”に注意し排気を良くすること。人間も同じです」と。
なお、私事で恐縮だが、島津先生(私は日頃から先生と呼んでいた)とは、私が学生時代モーターライフ(本社・大阪/二輪&四輪自動車総合雑誌)という会社でアルバイトをさせてもらっていた頃からいろいろ勉強させていただき、その縁もあって二輪車新聞へのコラムの執筆も御願いした。そうして1963年(昭和38年)、既に80歳半ばを過ぎたご高齢ながら“かくしゃく”しお元気な先生にあやかろうと、結婚の媒酌の労を御願いした。これは私にとって秘めたる自慢である。
二輪車新聞社元取締役大阪支社長 衛藤誠