しかし、時が流れるにつれて、この二輪車の動向が大きく変化してきた。つまり、二輪車中古車卸業者の減少である。

それは①新車も販売する一般の二輪車販売店(サブディーラー)への業態転向②四輪中古車専門(軽など小型四輪を含む)への転向③関西方面の二輪中古車相場が高くなり採算が取りにくくなった──など。

そうして、“一匹狼”的なブローカーたちは、拠点としていた大阪を初め関西地区に店を構え、その後大きく発展したところも少なくない。

それはともかく、67年(この取材をした当時)には、店の数も鹿児島は御三家をはじめ8店ほどに、宮崎は都城市に1店のみに減少した。そうしてこの頃の仕入れは広島、岡山など中国地方と、福岡市や北九州市をはじめ北部九州地区となった。

こうした中でも鹿児島・御三家の経営規模はますます強化をみていた。どうしてか。

まず一つは、40社前後あった二輪中古車卸業者が5分の1ほどに減少。“3局集中”的な現象をみたことによるのと、国産4銘柄を中心にした新車の卸販売である。と言っても、新車メーカーとスーパーディーラーとして正規の契約を結んだわけではない。

当時、国内二輪市場は各メーカーの過剰生産がますます加速され、市場に新車が溢れていた。特に、50ccクラスをはじめ、小排気量にその傾向が強く見られた。また、当時の決済は仕切制の現金決済ではなく、委託販売で、メーカーはスーパーディーラーとの台数契約で新車を大量に送り込む。スーパーディーラーは台数契約で、台数が多いほど利幅が大きく、またバックリベート(台数リベート)がもらえる。そのため、スーパーディーラーも販売実力以上の過剰な台数を引き受ける。

一方、スーパーディーラーは、傘下のサブディーラー(小売店)に対し、メーカーが行うのと同じようなことを行う。台数リベートやバックリベートなどで、過剰な数を委託販売に押し込む。この間の決済は、メーカー、スーパーディーラーとも長期の手形決済なのであった。

しかし、スーパーディーラーは、メーカーに対し、サブディーラーはスーパーディーラーに対し、いずれ決済しなくてはならない。既に発行した手形を落とすためには、どうしても現金が必要となる。

ここで大きな役割を果たすのが御三家など二輪中古車専門業者による買い取りである。このため一部では原価を割り込んだ売買も多く見られた。台数リベートやバックリベートの全てを吐き出す赤字売り渡しである。

ここで買い取った新車は、メーカーの正規ルートとは別の金融ルートとして一般小売り店に、正規ルートより格段に良い条件で卸売りされる。これによって正規ルートの新車はますます売れず、スーパーディーラーやサブディーラーの金融売りがますます増えた。一部にはメーカーが在庫処分のため、金融売りをスーパーディーラーに指示するというケースもあったようで、二輪中古車専門店のマンモストラックが、メーカーの倉庫に横付けされ、100台単位で買い取っていくケースもあったとされる。(これは、今から40〜50年前の二輪車販売“戦国時代”の話で、現在ではない。念のため。)

こうした状況をさして、最初に登場した福岡のスーパーディーラーの社長が、九州の二輪車業界は鹿児島・二輪中古車販売店の御三家が支配していると述べたものである。

当時の御三家の取り扱い車両は、3分の1強が新車だったという。こういう状態について、御三家の1社の社長は「こうした原因を作ったとは、メーカーですばい。我々が何も好き好んで新車を買い集めとるわけじゃなかと。新車のスーパーディーラーや販売店から買ってくれ、助けてくれと言われるから、買っとるだけのことたい。買うた以上はこちらも消化しなくてはならんし、消化するには正規ルートより好条件を出さにゃいかんとたい。メーカーは、こうした現状を十分知っていながら、何ば対策をとらんのが現状やけん、情けなかことたい。メーカーやスーパーディーラーは“金融もんが流れて困る、困る”と言うけど、その原因はアンタたちじゃろうがと言いたい。その流れるルートも十分に知っとるはずで、それを止めようとせんとは誰ね、と言ってやりたい……」とおっしゃる。

あれから既に50年を経て、業界は一変した。現在の新車の流れは、多くが各地のメーカー直営拠点から販売店に仕切り決済で出荷され、金融ものの流通など全く考えられない。また、鹿児島の御三家も、現在は一般の二輪車販売店として営業しており、当時の面影は全くないそうである。

二輪車新聞元取締役大阪支社長 衛藤誠

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