ホンダの二輪車国内販社・ホンダモーターサイクルジャパン(HMJ)は6月末、新社長に室岡克博氏(56)を迎え入れた。組織運営には人生観や仕事での経験、教訓などが大きく関わる。本紙では室岡社長に、これまでの経歴や経験、教訓などについて取材、3回にわたり掲載する。
──それまでの教訓を踏まえ、どのように振るまおうと考えましたか。
「海外では多くの従業員が辞めていきました。ある従業員に言われたことがあります。私は私たちの事を親身になって考えてくれている室岡さんを信頼している。しかし会社は信頼できない。
私だけが良くても駄目なんだ。それで従業員を引き留めることはできない。会社自体が信頼されるようにならなければならない、と教えられました。会社を代表するトップの在り方が重要なことが、身にしみてわかりました。
その後、36歳の時に朝霞研究所の開発管理部門に異動となり、38歳の時にはインドの海外研究所へ駐在。法人化したばかりの組織で、人事・給与制度の整備、人の採用、現地開発の仕組み作り等に携わり、インドで3年間、人づくりと仕事づくりにそれまでの経験を役に立てることができました。
帰国が迫り、当時のインド法人の社長に、日本の営業部門に戻りたいと頼み込みました。やはり営業職に就きたかったのです。その社長に言われたことは、選択肢は2つ。一つは研究所に戻れば、室岡さんのことを知っている人も多く、すぐに責務のある役職に就けるだろう。2つ目は営業に行ったら、室岡さんのことを知る人は誰もいないし、一から会社人生のやり直しになると指摘されました。しかし、それでもいいので覚悟して営業職を希望しました。
その後、念願かなって41歳の時に、営業職としてホンダ本社の二輪事業企画室で働くことになりました。ただ、待っていたのは開発モデルの機種コードを端末で打ち込む単純作業でした。しかし既に私は、どんな仕事も問題意識をもって一生懸命やればチャンスがめぐってくることを知っていました。
「夢と希望を語らねばならない」痛感
しばらくして当時の上司は私を中・長期戦略立案の担当に任命しました。二輪事業企画室は、商品戦略と全世界の事業戦略を整合し、二輪事業の中・長期戦略として経営に報告する部門で、中核となる業務に従事することができました。
その43歳の時に管理職となり、45歳の時にHMJに出向し、経営企画室長に就きました。当時からすでに人口減少も相まって日本の二輪市場は縮小傾向が見えていました。今後の計画も現実を見据えたものにせざるを得ません。一方、一緒に働いていた若い従業員は悩んでいました。この仕事を続けていいのか?彼らにとってはこれから何十年もの人生を支えていかなければならない仕事です。結局、彼は転職してしまいました。私は痛感しました『経営者はたとえどんな状況であっても、常に夢と希望を語らねばならない』と」
──以降はHMJでの勤務でしょうか。
「その後、本社の二輪営業部に戻り、海外営業人材育成の仕組み作りをした後、新設のアフリカ中東統括部二輪企画課に異動。そして51歳でホンダのナイジェリア現地法人に13代目の社長として赴任しました。アフリカ随一の人口と市場規模を持つナイジェリアには、約40年前より多くの日本企業が進出していました。その後、クーデターや経済破綻によりほとんどの日本企業が撤退する中、ホンダは撤退せず踏みとどまりました。
しかし2000年代に入り原油価格上昇による好景気で大量流入してきたのは廉価な中国・インドブランドの二輪車でした。ホンダも手をこまねいてはいられません。アジアの次のネクストポテンシャル市場を開拓するというのが私のミッションでした。
「グローバルな事業環境で、成長のない企業は淘汰される」
私もアジア各国での経験はありますがさすがにアフリカです。アフリカの従業員たちとはどう接すればいいのかと戦々恐々でした。前任の社長からは猛獣使いのようになることだと引き継ぎを受けましたが、私には性格的にできそうにありません。
そこで意を決し全従業員ひとり一人と面談をしてみました。仕事のこと、将来の夢のこと、家族のこと。それは日本やアジアで聞いたものと全く同じものでした。皆、仕事を愛し、成長し評価されたいと思い、家族の幸せを願っている。日本人もアジア人もアフリカ人も『人』としては何も変わりません。ただ文化や歴史的背景が異なるだけです。私はこれまで培ってきた自分自身の信ずる方法で従業員の育成を図り、会社経営をすることにしました。
就任当初、私は全従業員にビジョンを語りました。『我々は世界に通用するグローバルな競争力を身に着け、西アフリカの戦略拠点になろう』と。現実は浮き沈みの激しい経済状況の中、ナイジェリア国内の事業をやり繰りするので精いっぱいの日々です。しかしそれを耐えしのぶだけでは成長がありません。グローバルな事業環境の中で、成長のない企業は淘汰されます。
私は生き残りをかけてあえて一段高い目標と自分たちの存在意義を掲げたのです。結果、赴任から4年後には現地従業員の人材層も厚くなり、今では、ナイジェリアの従業員がアフリカの他の各地域に派遣される重要な存在になっています」
──ナイジェリアでの教訓は。
「ナイジェリアではもう一つ心に残ることがあります。これも赴任間もないころ、すぐに石油価格が暴落し、外貨不足、通貨危機、経済リセッションの状況になりました。我々は債務超過を回避するために、経費を抑えるべく駐在員を帰国させ、さらに現地従業員約120人のリストラをせざるを得ませんでした。我々は従業員と一対一で話し合い、可能な限り退職条件を手厚くし、理解して退職して頂くよう努力しました。
『人間尊重』という、ホンダ哲学の証
最後に退職者全員を集めて集会した時は、非難轟々になるかと覚悟していましたが、意に反し文句は一言も出ず、一人の退社する従業員が声をかけてくれたことを鮮明に覚えています。俺たちはホンダを去るが、ホンダは絶対にナイジェリアを去らないでくれ。なぜなら将来俺たちの子供たちがホンダで働けなくなるからと。
絶望的な不況の中、明日から職を失う彼らからこんな言葉が出てくるとは。我々ホンダには、自立、平等、信頼を基本理念とした『人間尊重』という哲学があります。なんだかんだ言いながら前任の社長も含めて過去12代の社長が、この哲学と共に従業員と接し、会社を経営してきてくれた証だと感謝しました。この会社を私の代で終わらせてはいけない、未来につなげなければならないと再認識しました。
ピンチをチャンスに!生産販売活動がほぼ出来ないこの時期はこの合言葉と共に、人事制度整備と人材育成を進めました。今は食いしばり将来のために蓄える時期であると宣言したのです。その後経済の回復とともに生産販売台数も拡大し、リストラした従業員の大多数を呼び戻すことができました。トップシェアのインドブランドに対抗しACE110という廉価な新機種を投入しシェアを拡大、販売店も倍に増やせました。
一連のリストラやその後の施策は、ナイジェリアの優秀な4人のマネージャーと共に判断し進めてきました。いつも彼らが会社代表として前面に立って戦ってくれました。任期最後の年は、次期マネージャー候補たちの育成を重点に、ポストを与えてマネジメントの実践をさせ、月次ミーティングで報告と共に全社視点に立ち議論させ、全員日本へ出張させホンダの成り立ちを学んでもらう場と機会を提供するなどをし、大いに士気を高め成長を促しました。彼らは10年後のナイジェリアを背負って立ってくれるはずです。
残念ながら私と駐在員は新型コロナの影響により3月末に全員日本に避難。私はそのままHMJに赴任しましたが、後任者や駐在員はいまだにナイジェリアに戻れずにいます。しかしながら現在、ナイジェリアでは現地マネージャーたちが自分たちで会社運営し、業務を推進してくれているようです。彼らを信じ、従業員教育に力を入れて後進を育成してきて良かったと思います」(続く)