メカニック兼マネージャーとして挑んだ1984年の全日本モトクロス選手権。外国製マシンでのフル参戦やどこよりも早く倒立型フロントサスを導入、B級からA級へシーズン途中での特別昇格。そんな異例づくめで一緒に闘った石井正美選手に一度だけ怒られた。フカフカのサンドコースに相応しいサス設定を、彼に相談せずに変更したからだ。「どんなことでも連絡を密にとる」という当たり前をちゃんとしなかったこの失敗は大きかった。

前回の記事の要約は以上だが「失敗」といえば、同じ年の84年。あるテストコースで開催された新型車プレス向け試乗会で私は大クラッシュをしでかした。

当時は雑誌社の数が多く、レーシーなバイクでA級の現役ライダーが試乗レポートする。レース経験がない上にサーキット走行ほぼ未経験という私でも「なんとか乗れるだろう」という思いで走り出した。

一番最初の試乗枠で先頭を周回していた私は、タイヤ温度上昇の3周をメドに走行ペースをアップ。それから数周回。さらにペースを上げたら150km/h近い速度の左コーナーで両輪がスーッと中に浮いた。車体はスライドしたままガードレールを乗り越えて松の木にぶら下がり、私はクラッシュパッドに叩きつけられて両手両足が動くのを確認後に気絶。 目が覚めたら病院のベッド。少し記憶喪失状態だったけれど、その日の夕方に帰宅。

バイクと自分をきちんと理解すること

無理をしたつもりはないが、私の後方はコースを走り尽くしていた現役トップライダーだったから、さっと前を譲り、後方から走りを学べば良いものを頑張ってしまった。

車両は前輪16インチ型のレプリカマシンであったためか、臨界点でいきなり滑り出すことに気づくのが遅かった。リアサスの構成も本来は関係するだろうが、前後重量配分やキャスター角、さらにはタイヤの接地圧だけではなく接地形状もホイール径により異なる。タイヤの接地幅と接地長の重要な関係性ついても、転倒後のエンジニアの解説でやっと理解できた。

しかも滑ったのは、その後も多くの名ライダーが転倒している場所で、コース下にある水路用のヒューム菅の陥没による路面の凹凸がその理由であったが、のちに全面修復された。それでも転倒しないことが一番大事。勝敗を決める極限のレースではないのだから安全マージンがあってこその試乗会。

しかし、上達しなければ安全マージンの取り方はわからない。スキルアップの王道は手堅くじっくり正確に。この時の失敗も、その後の私の大事な糧になった。

プロフィール

柏秀樹(かしわ・ひでき) 
1954年山口県生まれ。大学院生時に作家の片岡義男と、バイクサウンドをテーマにしたLPを製作。卒業後フリーランスのモータージャーナリストに。各種海外ラリー参戦も含めた経験を活かし、現在「KRS・柏秀樹ライディングスクール」を運営。全国各地で初心者やリターンライダー、二輪車販売店社長・社員の意識・運転技術改善に役立つノウハウ伝授や情報交換をしている。ベストセラーになったライディングDVD他著書多数。

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