1982年にパリ・ダカールラリー(パリダカ)に二輪部門で初参戦し、18回出場。パリ・モスクワ・北京ラリーも含め、ラリーレイドの競技では四輪部門で5回クラス優勝、8度の準優勝を成し遂げた浅賀敏則さんへの特別インタビュー。現在は東京都目黒区と大田区にある二輪車販売店のオーナーでもある浅賀氏にパリダカから二輪車販売の経営学、そして二輪車への思いまで語ってもらった。
画像: 「二輪車は解放と冒険心を与え、夢を描ける乗り物」
──浅賀敏則氏インタビュー【前編】

株式会社エイシー 代表取締役 浅賀敏則氏

浅賀敏則氏

僕が初めて乗った二輪車について触れるとホンダのベンリィ90が最初。当時は二輪車メーカーも数多くあり、どれが性能が良いとか、どれがカッコ良いとかも全然分からなくてね。それからオフロードレースに夢中になったんだけど、それにはトーハツのランペットで参戦していたよ。

横須賀の米軍基地で行われていたレースに参戦していたのだけど、当時は予選だけで5組もあった。それだけでも二輪好きな人たちの多さが伺えるよね。出場していた選手も後年、日産自動車のワークスドライバーとして活躍した長谷見昌弘さん(ハセミモータースポーツ代表)が一緒に出ていたよ。

それから二輪車の販売店を始めることになったのだけど、なぜホンダを扱うことになったのかと言うと、本田宗一郎さんが好きだったということもある。僕らの世代のヒーローだし、宗一郎さんが著者の『得手に帆あげて』という書籍を読んだことで、生き様も含めて凄く好きだった。

画像: 1960年代、箱根ツーリング時の様子。またがっている車両は「庄司興業㈱庄建号 55A」1955年。後方の車両はヤマハ「YA-1」1955年。後にYA-1を改造してスクランブル大会に参加することになる

1960年代、箱根ツーリング時の様子。またがっている車両は「庄司興業㈱庄建号 55A」1955年。後方の車両はヤマハ「YA-1」1955年。後にYA-1を改造してスクランブル大会に参加することになる

最初に世田谷の方でお店を始めたのだけど、当時はクールス(COOLS。俳優の舘ひろし氏が所属していた二輪車のチーム)の舘ひろしや俳優の織田裕二も遊びにきていた。彼らの二輪車の製作をしていた時もあった。

今は世田谷のお店は趣味の部屋にしていてエンジン付きのラジオコントロール飛行機や二輪車を展示している。二輪車はホンダCR110やベンリィもあるし、NR750を持っていたこともある。ホンダのエポックメイクな二輪車はほとんど所有していたよ。お店にある二輪車は全部レースを戦ってきたマシンであることもこだわりなんだ。いつかは博物館にしたいと思っているよ。

NHKドラマで役のモデルに

そうそう、織田裕二と言えば1989年にNHKで彼が主人公で放映された『十九歳』というドラマがあるのだけど、そのストーリーの中で二輪車販売店の店主役で西郷輝彦が出演しているんだ。実はその店主のモチーフになったのが僕なの。当時、NHKの製作スタッフがいろいろ話を聞きたいと訪れてみっちり教えてあげたお陰で、所作やセリフなどはとてもリアルだった。

ストーリーは高校生役の織田裕二が二輪車に興味を抱いて、店主がその相談相手になり将来はパリダカへ出場したいという話なのだけど、まずは二輪車を買いに販売店を訪れるんだ。でも、未成年であることで親の許可を得てから来いとか、二輪車の楽しさも危なさも含め店主が相手になってあげる。それで、物語の最後で主人公がオフロードコースで乗っていたモトクロスが転倒し投げ出されて、車両だけが炎上してしまうんだ。

車両を炎上させてしまうだけに、メーカーへネガティブなイメージを持たれてしまわないか、製作スタッフからも危惧する声が出ていたのだけど、僕は押し通した。実際にパリダカでも二輪車が燃えることは日常だったから。ちなみに主役の代わりにライディングをこなすスタント役もこなしていたよ。それと、そのドラマは二輪車がヒールな乗り物ではなく、主人公が人間的に成長する上で重要なツールとして使われているんだ。今、振り返ってみるとドラマや映画で二輪車がそうした使われ方をするのは貴重だよね。

記録への挑戦

次はパリダカの話。参戦したきっかけは、僕自身が達成し続けてきた記録への挑戦だ。記録というのは、25歳の時にトヨタのトヨペットコロナ・RT40でユーラシア大陸を横断、それからホンダのCB750で北米大陸一周を達成したことで、さらに記録を塗り替えようと思った。

でも、その前にとある日本人女性ライダーがサハラ砂漠を二輪車で縦断する企画をサポートしたんだ。そこで砂漠へのノウハウを積んだことで、今度はパリダカへ挑戦してやろうと思ったんだ。もうひとつ言うと、僕の根底には海外のモータースポーツに強い憧れがあったというのもあるのだけどね。

画像: 1972年のMCFAJ全日本トライアル選手権大会において3位で表彰される浅賀さん。表彰者は右からヤマハ発動機(入社前)の木村治夫さん、本田技研工業の田中よしあきさん、同・稲田実さん。いずれのメンバーもその後トライアルの普及に尽力した人たちだ

1972年のMCFAJ全日本トライアル選手権大会において3位で表彰される浅賀さん。表彰者は右からヤマハ発動機(入社前)の木村治夫さん、本田技研工業の田中よしあきさん、同・稲田実さん。いずれのメンバーもその後トライアルの普及に尽力した人たちだ

パリダカへの参戦はビジネスに結びつけていない

その後、1985年にヤマハのXT600・テネレを改造して二輪部門に出場、以後は四輪へと変わったけど、18回も参戦し続けることが出来た。

実現出来たのは自分への挑戦という側面もあるけど、経済的基盤をしっかり固めていたからだ。おかげで参戦への意欲も崩れることがなかった。小さなお店ではあったけど毎年、数億円規模の売り上げを計上できたし、フロア面積あたりの売上高は当時、二輪車販売店の中では日本でトップクラスだったと自負しているよ。

もっと大事なことを言うと、パリダカへの出場は自分のビジネスとは結びつけていない。あれは自分へのご褒美。そのために毎年必死で働いて、メーカーから要求されていた12カ月の販売計画を前倒しで達成していたから。もちろん、自分の資産の範囲内で行っていたよ。会社へ金銭的な負担をかけると経営も上手く回らないし、なにより働くスタッフたちに給与の遅配とか生じると大問題だからね。

当時、パリダカで参戦していた人の中にはそれを“名刺代わり”にしている人たちもいたけど、僕はその時のツナギやヘルメット、それにパーツなどをお店で展示することもしなかったよ。笑い話だけど、うちのお客さんも僕がパリダカに参戦していたことは知らなかったんだから。 (続く)

画像: 1985年、パリダカへ参戦時。1月8日、ニジェールにおいて撮影。「砂が顔のシワに沿ってたまり、ひどい顔になった」という浅賀さん(写真と文・出典:永岡書店昭和60年発行「JAPS WANT DESERT」より)

1985年、パリダカへ参戦時。1月8日、ニジェールにおいて撮影。「砂が顔のシワに沿ってたまり、ひどい顔になった」という浅賀さん(写真と文・出典:永岡書店昭和60年発行「JAPS WANT DESERT」より)

紙面掲載日:2021年4月30日・5月7日合併号

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